序の「著者から読者へ」には、「私は『屍の町』を書くことを急いだ。人々のあとから私も死ななければならないとすれば、書くこともいそがなくてはならなかった」とあります。「屍の街」の出だしは、被曝後近郊の田舎に暮らす著者のまわりで、被曝直後生き残って元気にしていた人たちが次々死に、著者もいつ同じ症状が出るのではないかと、1日に幾度も髪をひっぱって抜け毛の数を数えたり、手足の皮膚に斑点があらわれないか調べるという、死の恐怖にさらされる日々にあることから始まっています。
「私」は原爆投下のとき、まだ2階の蚊帳の中でぐっすり眠っていましたが、大地を震わせるような恐ろしい音が鳴り響き、屋根がはげしい勢いで落ちかかり、気がつくと、窓ガラスも壁もふすまも屋根もなにもかも崩れ飛んで骨ばかりになった2階で壁土の煙の中にいました。やっとのことで降りて、無傷だった母とお岩さんのような顔になっている妹と避難します。
街の惨状については、「はだしのゲン」の中沢啓治さんもとても直視して描けないというところまでしっかり見据えています。
「私」と妹はけがをしていたので手当てをしてもらおうと病院に向かいますが、街筋でも通りでもない芥屑やがらくたでふさがり、あちこちに死体がころがる道で、こんな会話をしています。
「お姉さんはよくごらんになれるわね。私は立ち止まって死骸を見たりはできませんわ。」妹はとがめる様子であった。私は答えた。
「人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの。」
「書けますか、こんなこと。」
「いつかは書かなくてはならないね。これを見た作家の責任だもの。」
巻末の「作家案内」によると、大田洋子は母の離婚、再婚により複雑な家庭環境に育ち、江刺昭子の評伝では「傲慢で、不遜で、けちで、偏狭で、我が儘で、陰惨で、残忍で、あまりに自己中心的で他への思いやりのない態度」とさんざんな書かれようです。「女人芸術」で作家として活躍するようになりますが、「女人芸術」が廃刊になってからはいばらく鳴かず飛ばずになっていました。1938年中央公論社「知識階級総動員懸賞」に変名で応募した「海女」が第一席をとります。翌年朝日新聞社「創立五十周年記念懸賞小説」に長編「桜の国」が第一席に入選、当時大金であった賞金1万円を獲得しました。この「桜の国」以来大田は15年戦争の時流に乗ったといえ、開戦の知らせについては「涙を流し、目覚めるような想いがし、新鮮な焔をかんじた」と書いているそうです。
けれども、「屍の街」には、次のような文章もあります。
「戦争中、私どもは自分の言葉を欺いていなくてはならなかった。云いたいことが云えぬと嘆くけれど、云いたくないことやしたくないことを、云ったりしたりしなくてはならなかった。それは非常に苦しいことであった。」
気を許せる友とは、日本が負けることはわかているけれど、どのように負けるか、などと話し合うエピソードが書かれています。
広島がほとんど空襲に遭わないことで、広島の人々がアメリカが別荘地にするつもりなのではないかとか、広島からの移民がアメリカのためによく働いているからお義理だろうか、などと噂しあっていたというのも興味深いです。
次のような文章もあります。
「… 軍国主義者たちが、捨て鉢な悪あがきをしなかったならば、戦争はほんとうに終わっていたのだ。原子爆弾は、それが広島であってもどこであっても、つまりは終わっていた戦争のあとの、醜い余韻であったとしか思えない。戦争は硫黄島から沖縄へくる並のうえですでに終わっていた。だから私の心には倒錯があるのだ。原子爆弾を我々の頭上に落としたのは、アメリカであると同時に、日本の軍閥政治そのものによって落とされたのだという風にである。」
大田洋子は「原爆を喰いものにしている」「原爆ものはもうたくさん」といった文壇、ジャーナリズムの風潮に抗して書き続けました。
「屍の街」より。
「原子爆弾を征服するものも世界の誰かが考えるだろう。原子爆弾を負かすものが出来ても、戦争は出来るにちがいないけれども、それはもう戦争ではない。いっさいを無に帰す破壊である。破壊されなくては進歩のない人類の悲劇のうえに、いまはすでに革命のときが来ている。破壊されなくても進歩するよりほか平和への道はないと思える。今度の敗北こそは、日本をほんとうの平和にするためのものであってほしい。
私がさまざまな苦悩のうちにこの一冊を書く意味はそれなのだ。」
この文庫本には原爆で受けた心の傷により、神経症となって精神科に入院する体験をもとにした「半人間」も収録されています。



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