一部ですが、掲載させていただきます。
「硫黄島玉砕して父島にとり残された。幾重にも敵戦艦に囲まれて袋のねずみ。九州男児の精鋭部隊も装備の違いには勝てなかった」
「司令官が台湾に逃亡したため、バリ島山中にはいった。軍靴を飯ごうで炊いて食べる戦友がいた。ウジ虫に膿を吸わせてそのウジ虫を食べた」
「特攻隊として台湾に行き、9月に出撃予定だった。爆弾を背負ってかくれ、戦車に体当たりする訓練もした。仲間が特攻により米戦艦を撃沈。赤とんぼという練習機だったので、練習機ではない飛行機でやらせてほしいと願った。あとに続くところだったが終戦になった。戦友達は出撃となると死にたくないので青菜に塩のようになった。いざ出撃となると生き生きとなって『あとから来いよ』と言ったが、今度は残された人が青菜に塩だった。亡き友の青ざめた顔が忘れられない」
「八路軍との戦いで弾が腰を貫通した。自爆を考えたが、母の幻に導かれて、手招きされて山の稜線に沿って逃げおおせた」
「スマトラ、パレンバンに落下傘部隊として降下して占領に成功。その後特攻隊になるべく命令を受けた。戦局の推移と悲惨さを見てきた身にはいまさら特攻隊と言われてもむなしさを感じるばかりだった。それまでだって特攻隊も同然だったではないか。戦友の平安のためにと戦ってきたが、特攻隊ひとりの死は数万の戦友への死に繋がっていく。攻撃は、勝つ見込みがないのに行かせる軍部に向けるべきと考えて脱走を決意した。母のことだけが気になったが、ある日絶好の機会がきた。」
「フィリピン、ルソン島生まれ。現地召集で両親兄弟ら5人亡くした。戦前家族は平和にマニラで暮らしていたが、フィリピン軍に連行された。日本軍が進軍して解放されて家に帰ると略奪されていた。婦女子は船で帰国しようとしたが、米軍の爆撃にしかたなくルソン島に戻り逃亡生活になった。すでにレイテ湾に米軍がいて、古参兵は戦死。大西中尉が特攻作戦を考え、700名の命が失われた。マニラでたてこもったが、武器もなく、焼け野原に。毎日仲間が餓死した。邦人が爆撃により死んで木の枝に手足がひっかかっていた。
傷病兵は一緒に連れて行ってくれと泣いて頼んでいたが、衛生兵が注射を打って針金で縛って埋めてしまった。」
「マレー侵攻、シンガポールを経て昭和19年パラオに。シンガポールは勝った。ジャワからオーストラリアに入ろうという作戦に従ったが、もうだめだと思ったことが3回あった。最後は大爆撃。すぐそばに爆弾が落ち、『お母さん』の声が耳にはいった。」
これは、証言の一部ですし、聞き間違いなどがあるかもしれません。戦場を体験したかたたちも、少年兵だった最年少のかたで、80歳。生きているうちに語り残したいと待機しているかたがまだまだいらっしゃるそうです。戦争の記憶が消えて同じ間違いを犯すことのないよう、証言をビデオに撮って資料館に集めておこうという、この運動にご賛同くださる方は、
戦場体験放映保存の会
をご覧ください。年会費1000円です。
戦場体験放映保存の会ブログ
今回とは違うかたの証言ですが、貴重な証言の動画は下記でご覧になれます。
世論力テレビ
去年の集いで聞いた証言はこちら


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